どこか遠くで。

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夫婦って...何だ? 初めての結婚編 ⑹

私は泣きながら叫んだ。 「お父さんは私を殺そうとした!これで二回目なんだから!」 そう叫ぶと私は踵を返して、家の門から走り出た。 大通りに出てタクシーを拾うと、そのままTの元へ去った。 そうやって私は、入籍の日を待たずに家を飛び出したのだった。

夫婦って...何だ? 初めての結婚編 ⑸ - どこか遠くで。

その夜は思いの外、優しくTは私を迎えた。
何も聞かずに私の傷の手当を熱心にするT。
出血の量は多く感じたが、傷はとても浅かった。
傷の手当てを済ませるとTは、私を風呂場へと案内した。
浴室へ続く戸を開けると、硫黄の匂いが立ち込めて浴室内は湯気で真っ白だった。
たっぷりの熱い湯を張った浴槽には、温泉の素が入れてあって白濁している。
あとは浸かるだけの状態へと、すっかり用意を整えてあった。


「Yちゃんのお父さんから電話があったよ...今夜はゆっくり風呂にでも浸かって、これからのことは明日また話そう」
私の怪我の手当をしながらそう話したTの顔を、再び思い浮かべながら熱い湯船に浸かった。
その時のTに浮かんだ表情に、私は違和感を覚えたのだった。
あの違和感は何だったのだろう?
これほど優しくしてくれるTに何故、あんなに奇妙な気持ちになったのだろう。
その違和感がなんなのか、理解できなかった。
違和感を吟味している余裕がその時の私にはなかったのも確かだが、いろいろなことを経験した自分は世の中を知り尽くしていると思い込んでいただけで、何も知らない世間知らずだったのだと今だから断言できる。
そして私は結婚の相手を疑い観察するよりも重要な、気がかりがあったのだ。
それは父のことだった。


父は今どんな気持ちで、この夜を過ごしているのだろう。
父は傷ついているだろう。
あの時、包丁を持った父は泣いていたのだ。
父に投げつけた言葉を、必死になって思い出そうと試みる。
けれどどんなに必死になっても、その言葉を一つとして思い出せない。
あの抑えのきかない、煮えたぎるような思い。
憎しみとか恨みとか、そんな感情は幼い頃から家族に対して私が密かに持っていたものだ。
家出から戻ってからすっかり消えてしまったように思えたあのどす黒い感情は、実は私の中で隠れていただけだったのだろう。
ひっそりと息を潜めて、放出する機会を狙っていたに違いない。
次から次へと湧き上がり、変化する感情の渦に溺れそうになる。
悲しみと怒りが交互にやってきて、後悔すべきなのか、さっぱりと潔く切り捨てるべきなのか、判断ができなかった。


疲れが抜けるどころか考えすぎて、入浴前よりも余計に疲れ切った状態で居間へと向かった。
そんな私のぼんやりとした表情を見た時のTの表情に、先ほど傷の手当ててで感じた奇妙な気分が重なる。
あの時のTのあの表情への違和感が嫌悪感だったのだと、今ならば察しがつく。
けれど当時の私には、一切見当がつかなかった。
なんとなくTと目を合わせることに戸惑いを覚えるのは、恥じらいのためだと自らに言い聞かせた。
そわそわと落ち着かないのはこの状況下では当然のことと、湧き上がる不安を追いやった。


他人と寝床を共にしては眠れないと打ち明けたことのある私に気遣ってか、Tはベッドに私を寝かしつけると居間へ去って行った。
その途端に感じた安堵に、どことなく後ろめたさを感じる。
それでもその安堵の意味を考察する前に、眠りはすぐにやってきた。
そして翌朝、出勤前のTと話をした。
どうしたいのかをTに聞かれた私は、もう家には帰りたくないと答えた。
その答えに頷いたTは、Yちゃんのお父さんと今夜会って話すことになっていると打ち明ける。
そうなるだろうと分かっていた私には驚きはなかった。
その件には触れずに、ここへ居ていいの?とただ問うた。
Tは幾度か頷いてから、お父さんの許しがあればと答える。
こんなことになった以上、もう父は反対できないだろう。
こうなってしまってから私は、初めて結婚に対する不安を感じ始めていた。
このままこの人と結婚してしまって良いのだろうか?
この人は一体どんな人なのだろうか?
つい昨日まで最愛の人と思い込んでたその男が、何一つ知らない赤の他人のように見えてならない。
若々しく見えたその顔の、年相応に刻まれた皺が何故か顕著になって、彼の右頬にあるうっすらとしたシミが醜い老斑のように私の目には映る。
彼の真っ白な前歯が実は差し歯ではあるという事実に今更気づいたように、この人の差し歯ってこんなに人工的に見えていっけ?と不思議に思い、つい傍観してしまうのだ。
この人は昨日まで私の知っていたTさんとは、全くの別の人ではないのか?
どこかの知らない誰かが、Tさんのふりをしているだけではないのか?
私はこの知らない誰かに、騙されているのではないか?


何故、こんなことになったんだっけ?
酔って父に罵倒をあびせて、それに怒った父が包丁を私に突きつけた。
あれは事実だったのだろうか?
いつ、父はあの包丁を手にしたのだっけ?
父はどうやって私の前から去って、キッチンからあの包丁を持ち出したのだっけ?
父が包丁を持って戻るまでの間に、玄関先で私は何をしていたんだっけ?
どう記憶をたどっても、タクシーから降りてから、包丁を持った父を目の当たりにするまでの経過が思い出せない。
思い出せない焦りが、不安を増幅させる。
得体の知れない不安に包まれて私は、ますます何かの罠にかかったような気分になる。


全ての不安を打ち消すように私は、できるだけ明るく言った。
「Tさん、大丈夫?」
Tはにこやかに笑って、私の頭を撫でながら言った。
「心配しなくていいから。悪いようにはしない」


夕方仕事から一旦戻ったTはスーツを着替え直すと、「行ってくるよ」と告げて彼の愛車に乗り込んだ。
走り去るテールランプの赤を眺めながら、打ち消したはずの不安が再び湧き上がってくるのがたまらなかった。
確かにあの時の私はどう考えても、安心できる状況ではないと今でも思う。
それにしても尋常ではないあの不安は、そのあとに続く恐怖の予感だったのではないかと、今だからこそ思える。
予感など全く信用できないなどとは思えなくなるほど、あの結婚生活を送った期間は脅威を感じ続けていた。
二年に満たない短期間ではあったが、脆弱な私の精神が壊れる引き金となるには、十分な衝撃の連続だったのだ。