どこか遠くで。

ちょっとした空き時間に、少しだけ現実とは違う世界へご一緒しませんか?

夫婦って...何だ? 初めての結婚編 ⑹

私は泣きながら叫んだ。 「お父さんは私を殺そうとした!これで二回目なんだから!」 そう叫ぶと私は踵を返して、家の門から走り出た。 大通りに出てタクシーを拾うと、そのままTの元へ去った。 そうやって私は、入籍の日を待たずに家を飛び出したのだった。

夫婦って...何だ? 初めての結婚編 ⑸ - どこか遠くで。

その夜は思いの外、優しくTは私を迎えた。
何も聞かずに私の傷の手当を熱心にするT。
出血の量は多く感じたが、傷はとても浅かった。
傷の手当てを済ませるとTは、私を風呂場へと案内した。
浴室へ続く戸を開けると、硫黄の匂いが立ち込めて浴室内は湯気で真っ白だった。
たっぷりの熱い湯を張った浴槽には、温泉の素が入れてあって白濁している。
あとは浸かるだけの状態へと、すっかり用意を整えてあった。


「Yちゃんのお父さんから電話があったよ...今夜はゆっくり風呂にでも浸かって、これからのことは明日また話そう」
私の怪我の手当をしながらそう話したTの顔を、再び思い浮かべながら熱い湯船に浸かった。
その時のTに浮かんだ表情に、私は違和感を覚えたのだった。
あの違和感は何だったのだろう?
これほど優しくしてくれるTに何故、あんなに奇妙な気持ちになったのだろう。
その違和感がなんなのか、理解できなかった。
違和感を吟味している余裕がその時の私にはなかったのも確かだが、いろいろなことを経験した自分は世の中を知り尽くしていると思い込んでいただけで、何も知らない世間知らずだったのだと今だから断言できる。
そして私は結婚の相手を疑い観察するよりも重要な、気がかりがあったのだ。
それは父のことだった。


父は今どんな気持ちで、この夜を過ごしているのだろう。
父は傷ついているだろう。
あの時、包丁を持った父は泣いていたのだ。
父に投げつけた言葉を、必死になって思い出そうと試みる。
けれどどんなに必死になっても、その言葉を一つとして思い出せない。
あの抑えのきかない、煮えたぎるような思い。
憎しみとか恨みとか、そんな感情は幼い頃から家族に対して私が密かに持っていたものだ。
家出から戻ってからすっかり消えてしまったように思えたあのどす黒い感情は、実は私の中で隠れていただけだったのだろう。
ひっそりと息を潜めて、放出する機会を狙っていたに違いない。
次から次へと湧き上がり、変化する感情の渦に溺れそうになる。
悲しみと怒りが交互にやってきて、後悔すべきなのか、さっぱりと潔く切り捨てるべきなのか、判断ができなかった。


疲れが抜けるどころか考えすぎて、入浴前よりも余計に疲れ切った状態で居間へと向かった。
そんな私のぼんやりとした表情を見た時のTの表情に、先ほど傷の手当ててで感じた奇妙な気分が重なる。
あの時のTのあの表情への違和感が嫌悪感だったのだと、今ならば察しがつく。
けれど当時の私には、一切見当がつかなかった。
なんとなくTと目を合わせることに戸惑いを覚えるのは、恥じらいのためだと自らに言い聞かせた。
そわそわと落ち着かないのはこの状況下では当然のことと、湧き上がる不安を追いやった。


他人と寝床を共にしては眠れないと打ち明けたことのある私に気遣ってか、Tはベッドに私を寝かしつけると居間へ去って行った。
その途端に感じた安堵に、どことなく後ろめたさを感じる。
それでもその安堵の意味を考察する前に、眠りはすぐにやってきた。
そして翌朝、出勤前のTと話をした。
どうしたいのかをTに聞かれた私は、もう家には帰りたくないと答えた。
その答えに頷いたTは、Yちゃんのお父さんと今夜会って話すことになっていると打ち明ける。
そうなるだろうと分かっていた私には驚きはなかった。
その件には触れずに、ここへ居ていいの?とただ問うた。
Tは幾度か頷いてから、お父さんの許しがあればと答える。
こんなことになった以上、もう父は反対できないだろう。
こうなってしまってから私は、初めて結婚に対する不安を感じ始めていた。
このままこの人と結婚してしまって良いのだろうか?
この人は一体どんな人なのだろうか?
つい昨日まで最愛の人と思い込んでたその男が、何一つ知らない赤の他人のように見えてならない。
若々しく見えたその顔の、年相応に刻まれた皺が何故か顕著になって、彼の右頬にあるうっすらとしたシミが醜い老斑のように私の目には映る。
彼の真っ白な前歯が実は差し歯ではあるという事実に今更気づいたように、この人の差し歯ってこんなに人工的に見えていっけ?と不思議に思い、つい傍観してしまうのだ。
この人は昨日まで私の知っていたTさんとは、全くの別の人ではないのか?
どこかの知らない誰かが、Tさんのふりをしているだけではないのか?
私はこの知らない誰かに、騙されているのではないか?


何故、こんなことになったんだっけ?
酔って父に罵倒をあびせて、それに怒った父が包丁を私に突きつけた。
あれは事実だったのだろうか?
いつ、父はあの包丁を手にしたのだっけ?
父はどうやって私の前から去って、キッチンからあの包丁を持ち出したのだっけ?
父が包丁を持って戻るまでの間に、玄関先で私は何をしていたんだっけ?
どう記憶をたどっても、タクシーから降りてから、包丁を持った父を目の当たりにするまでの経過が思い出せない。
思い出せない焦りが、不安を増幅させる。
得体の知れない不安に包まれて私は、ますます何かの罠にかかったような気分になる。


全ての不安を打ち消すように私は、できるだけ明るく言った。
「Tさん、大丈夫?」
Tはにこやかに笑って、私の頭を撫でながら言った。
「心配しなくていいから。悪いようにはしない」


夕方仕事から一旦戻ったTはスーツを着替え直すと、「行ってくるよ」と告げて彼の愛車に乗り込んだ。
走り去るテールランプの赤を眺めながら、打ち消したはずの不安が再び湧き上がってくるのがたまらなかった。
確かにあの時の私はどう考えても、安心できる状況ではないと今でも思う。
それにしても尋常ではないあの不安は、そのあとに続く恐怖の予感だったのではないかと、今だからこそ思える。
予感など全く信用できないなどとは思えなくなるほど、あの結婚生活を送った期間は脅威を感じ続けていた。
二年に満たない短期間ではあったが、脆弱な私の精神が壊れる引き金となるには、十分な衝撃の連続だったのだ。
















夫婦って...何だ? 初めての結婚編 ⑸

そのママのバーへ、父は私を誘ったのだった。 そのバーでの父のある態度に失望した私は、父を打ちのめす発言をして、ある出来事へと発展していく。 今回はその話をしようと思っていたけれど、思わぬ方向へ寄り道してしまって、そこへはたどり着けなかった。

夫婦って...何だ? 初めての結婚編 ⑷ - どこか遠くで。

ママのお店に行くのは何年ぶりだったろう?
家出をする前だから、21歳になる前のことだ。


父のことだから、きっとママには何でも話していることだろう。
信頼した相手には内緒事のできない人なのだ。
それにしても何処まで打ち明けているのだろう。
私にだって秘密にしておいてほしいことくらいはある。
なんでもかんでも話されてしまったら、どんな顔で接すれば良いのか迷ってしまう。
家出したときの自分が陥った状況は出来れば、誰にも知られたくない。


もちろんママのことだ。
余計な詮索はもとより、余計なお節介も上からの助言もするはずがないことは私にだって分かっている。
どんなことを聞いていても取り繕う必要など全く感じさせないような、自然な態度と程よい距離感で接してくれるだろう。


ママは人に、こうあって欲しいなどと望んだりしない。
ご自身のこともこうあるべき、と縛らない。
大袈裟な態度もしないし、いい加減な態度もしない。
ママの前では自由に普通にリラックスして、好きにしていて構わないのだ。


だからこそ、私は自分がどう振る舞っていいのか分からなくなる。
望まれた、与えられた役割を演じることが当たり前だった私には、自分が本当に望むことが何なのかよく分からない。
誰かに望まれなければ、自分がどうしたいのかすら分からなくなるのだ。


私は他人がいるときは常に、その他人を意識し過ぎる。
本当の自由を、私は知らない。


こうあるべき、こうせねばならぬ、姉らしく、娘らしく、優しく、にこやかに、奥ゆかしく、けれど意志はもって、静かに、ゆったりと、堂々と、けれど優等生ではなく、不良でもいけない。
その場その場の状況や相手に応じて、カメレオンの如く変化することを要求され、それを上手く演じなければ私の居場所など何処にも存在しないのだ。
誰かといるときに、私が私のまま、リラックスして過ごして良いはずがない。


さも自由に振る舞っているように、少し我が儘な自分を演出する必要もあるかも知れない。
少し大人になった落ち着きを醸し出すべきか?
それともまだまだ子供の無邪気さが見栄隠れする、純粋な部分を覗かせるべきなのか?


ママだったら、そんな小手先の演技はすっかり見抜いてしまうだろう。
私のような小娘がどう取り繕っても、敵う相手ではないのだ。
数年ぶりのママとの再開は緊張を伴うものではあったが、それよりも会いたい気持ちが勝っていた。



週末の21時、ママのバーは程よい賑わいを見せていた。
黒を貴重としたシックな店内の大きなカウンター隅の一席分にライトアップされた、華やかな花々が見事に活けられている。
ゆったりと寛げるどっしりとした座り心地の良い椅子が、広い間隔をもって設置されている。
通常であれば三席は作れるスペースに、二席しかその椅子は置かれていない。
グラスはバカラを使用している。
変わらぬママのこだわりが感じられる店内は、時間の流れをすっかり忘れ去ってしまう不思議な空間だ。



口元に静かな笑みを浮かべたママが、父から少し離れた左前に父のボトルをそっと置いた。
「Yちゃんは何を召し上がる?」
カルヴァドスをください」
ママはちょっと眉間を寄せた笑顔で軽く頷いてから一言。
「Sさんのボトルを目の前にして、自分の飲みたいお酒を躊躇いなく注文するところが、相変わらず貴女らしいわね」


そして父の隣に、40代と思しきブランドで身をかためた一人の男が座った。
身なりは悪くないが口の聞き方を知らない男で、60代に近い父に向かって軽々しい口調で自慢話ばかりしている。
父は合図地を打ちながらにこやかに相手をしているから、私も父にならって自慢話を聞き流していた。
嫁ぐ前に親子二人で来ているのに、その男の自慢話を聞きに来ているようなものだ。


他の客の相手をしていたママがやって来て、その一人客に「このお嬢さんね、もうすぐ結婚するのよ。これからは親子で飲みに来る機会も減るでしょうから、のんびりさせてあげてね」と声をかけてくれた。
流石に男もハッとして「それはお邪魔しました」と軽く頭を下げた。
しかしそれからも度々父と私の会話に割って入っては、こちらの会話を自分の話題にすり替えてしまう。
この調子では誰も相手にしないのだろうな、そう思う私をよそに、父は「ほう、そうですか。それはすごい」などと話を合わせて相槌を打っている。
そんな父に、少しずつ苛立ちを感じ始める私だった。


二時間ばかりそうやって時間を費やしたろうか。
次第に不機嫌になっていく私が、流石に父も気になったのだろう。
「そろそろ帰るか?」
そう私に聞いた。
私はすかさず、「はい」と答える。
人前での返事は「うん」ではなく「はい」なのだ。
その辺は父に強く言われている。
私はこの頃、喫煙をするようになっていたが、この喫煙も「俺と一緒の時には人前ではしてくれるな」と言われていた。
体裁を気にしているようであまり良い気分はしなかったが、父の気持ちもなんとなく分かるからこの頃は素直に従っていた私だった。


父がママに合図して「ごちそうさま」と言う。
他の客を相手していたママが飛んで来て「今日はごめんなさいね」と、申し訳なさそうに顔の前で両手を合わせた。
父が「いや、楽しかった」と笑いながら言う。
男が「今日は私がご馳走しますよ」と間髪入れずに入る。
父が「そうかね?」と普通に返す。
男は「お嬢さんの結婚祝いを兼ねて」と返して、この会話が終わった。


帰りのタクシーの中で、私は父に文句を言う。
「お父さん!なんであんな男にご馳走してもらわなければいけないの?」
「ん?いいだろ?払うって言ってるんだから」
「あんな人にご馳走してもらいたくない!」
「いいだろ?別に」
「昔のお父さんだったら、あんな人に奢ってもらうことなんかなかったでしょ?」
「ん?金を持ってるって自慢してたろ?あいつ。金を使いたくて仕方ないんだろ?払わせてやれば良いだろ?」
「お父さんは変わった!そんなの格好悪い!」
「そうか?」
「そうでしょ!?見っともないでしょ?そんなの!そんなお父さんなんて見たくない!」


タクシーを降りてからも、私の父への罵倒は止まらなかった。
酔ってもいたし興奮していた私は、どんどんエスカレートする。
この後どんな言葉で父を罵倒したのか、全く覚えていない。
母のこと、父と愛人との旅行やスキーに同行させられた時のこと、子供時代からの恨みや悲しさ、胸の内を全て洗いざらいぶちまけた。
気がつくと父が包丁を持って、私の目の前に立っていた。
「お前を殺して俺も死ぬ」
このセリフを父が私に向けたのは、この時で二度目だった。
過去に一度、十七歳の私を父はライフルで撃とうとしたことがある。
その時も同じこのセリフを、父は口にしていた。


父が本気で私を包丁で刺す気持ちがないことを、その時の私は分かっていた。
けれど差し出された包丁で脅され、怯える素振りを見せたくはなかった。
幼い頃から我慢を重ねてきた悔しさが、一気に込み上げてきた。
その思いは、すぐに急激に頂点に達した。
こんな包丁なんて私はちっとも怖くない!
そして次の瞬間、私は父が向けた包丁の刃の部分を両手で掴んだ。
包丁を掴んだ私の手から、ポタポタと血が滴る。
血が私の靴に落ちて、染みを作る。
地面にもその血は落ちて、見る見る沁み込んでいく。
痛みは感じなかった。
ハッとした父が叫んだ。
「Y!お前!何をしてるんだ!包丁を離せ!離すんだ!」


私は泣きながら叫んだ。
「お父さんは私を殺そうとした!これで二回目なんだから!」
そう叫ぶと私は踵を返して、家の門から走り出た。
大通りに出てタクシーを拾うと、そのままTの元へ去った。


そうやって私は、入籍の日を待たずに家を飛び出したのだった。




















夫婦って...何だ? 初めての結婚編 ⑷

あの時、素直に父の言うことを聞いていたら、今の私ではない人生を送っていたのだろうか。 精神を病むことはなかったろうか。 今の夫と出会うことも、なかったのかも知れない。

夫婦って...何だ? 初めての結婚編 ⑶ - どこか遠くで。


入籍の日が近づいていたある日、父が私を行き付けのバーに誘う。
ここのママは父の友人の愛人だ。
私が最初の高校の中退を決意し次の高校に進学するまでの短い期間に、父はしばらくこのママに私を預けた。
家族との関係がギクシャクして、私が居場所を失っていた時分だった。


ママは元々は旧家のお嬢様で、茶道華道は免許皆伝、立ち居振舞いの美しいキリリとした女性だ。
そんな人がどのような経緯を辿って、こんな片田舎のバーの経営者となったかは全くの謎だった。


私が高校に入学したての頃、一つ年下の妹は高校受験を控えていた。
父が私に一番厳しかった頃と重なるこの時期に、私は父から折檻を受けることが度々あった。
その状況を作っていたのは母だ。
自分本位な主張で事実を捻じ曲げて、父にさも私が反抗的であるように言いつけ、父を焚き付ける母。
アルコール依存症の母に対する父の怒りを、私へ転化させるためにそうしていたのだろう。
要するに母は父から自分が殴られるのを免れるために、私を犠牲にしていたに過ぎない。
毎晩のように繰り返された父と母の夫婦喧嘩はいつしか、父と私の親子喧嘩に変わっていた。
その騒ぎは受験を控えた次女に悪影響を与えるという理由で、私を家から追い出すことを提案したのは母だった。
高校一年生の夏休みに、私は独り暮らしを強制された。
放置されたその間に引きこもり状態となった私は高校一年生の二学期のほとんどを、一人暮らしのアパートに引きこもって過ごした。
二学期の出席率が、どの程度なのか私は一向に記憶がない。
中学三年の頃に奇病にかかって(おそらく鬱だったのであろうが)一学期間をまるまる休学していた私は病弱な生徒として事前に届けられていたため、体調不良による度重なる欠席も疑われずに済んだようだ。


私は毎朝、母のふりをして学校へ病欠の電話を入れた。
そうやって雨戸を閉じた暗い部屋で、ぼんやりと過ごしたおよそ四ヶ月間の日々。
その頃どんな気持ちだったのか、実のところ本人である私がよく覚えていない。
暗い部屋でテレビもつけずに毎日毎日、飽きもせずに音楽を聞いていたことだけを覚えている。
自宅に戻って食事を取っていたような気もするし、自分で食事の支度をしていたような気もする。
二学期は九月から始まって十二月のクリスマスあたりまでの期間なのだから、およそ四ヶ月もの間の記憶が私にはほとんどない。
一人暮らしを始めたばかりの夏休みには、友人が私の暮らすアパートへ遊びに来ていたことや、二学期が始まったばかりの頃は普通に通学していたことも、記憶に残っている。
けれど、いつ頃から学校を休み始めたのか?
いつ頃からカーテンを開けなくなったのか?
日々の食事はどうしていたのか?
入浴はどうしていたのか?
夜は眠れていたのか?
生活は昼夜逆転していたのか?
なにをどう考えていたのか?
全く記憶がないのだ。


ただ一人ぼっちの薄暗い部屋で、ヘッドフォンで音楽を聞いている自分の姿しか思い出せない。
暗い部屋を照らしていたのは、ステレオからのパネルライトの青白い明かりだけだった。
そのとき私は泣いていたろうか?
一人ぼっちで寂しかったろうか?
見捨てられたと思って親を恨んでいたのだろうか?
よく覚えていない。
ただ悲しかったことだけは、覚えている。


2学期が終わる頃に担任が自宅に電話をかけて来たらしく、そのときになって初めて長女が二学期のほとんどを欠席していることを両親は知ることとなる。
学校からの呼び出しで父と二人で高校へ行った時のことは、私もよく覚えている。
父の運転する車の助手席で、黙って車窓からの景色を眺めていた。
父が何かを話していたように思うが、なにを話していたのかは私の記憶にない。
ただ流れていく景色だけを覚えている。


校内の応接室で学年主任も兼ねる教頭を交え、担任と父と私との四人でソファーに腰掛けていた記憶はあるが、会話の内容はほとんど忘れてしまった。
こうやって思い起こしてみれば、私の子供の頃の記憶は父と二人で会話したこと以外は全て無音だ。
どの記憶も、映像しか思い浮かばない。
母からの罵倒は思い出すが...。


高校の応接室での出来事は、
出席日数が不足しており、二年生には進級できないこと。
来年四月から一年生をやり直すよう、教頭が勧めたこと。
教頭が私の手を握りながら、「あなたは良い子だから」と言ったこと。
私が他校を受験し直すと、キッパリと宣言したこと。
この四点しか覚えてない。


そういえば、学校の帰りに父と二人で中華料理を食べたことを、今思い出した。
個室の中央に設置された丸いテーブル、その上のターンテーブルに並ぶ中華料理。
対面の父の、満面の笑顔。
父が嬉しそうに言う。
「お前、すごいな」
「なにが?」
「いや、だって、お前、あの教頭に向かって、あんなにはっきりとな」
「うん」
「俺が高校生の頃は、大人にあんな風に意見なんてできなかったぞ」
「ふーん」
「いやぁ、俺はお前のことを勘違いしてたな」
「うん」
「なにも考えていないと思っていたよ」
「うん」
「いろんなこと考えてるんだな、お前」
「そうかな?」
「いや、良かったよ」
「そうなんだ?」
「ああ、良かった」


教頭が私の手を握り「あなたは良い子だから」と言ったとき、私は教頭の手を振りほどいてこう言ったのだ。
「やめてください!父がいるから良い先生ぶるのは!」
呆気にとられた教頭が「どうしたの? Sさん」と尋ねる。
「K先生、私は真面目な生徒ですよね?」
「そうよ?」
「そうです!私は真面目なんです。校則を破ることはほとんどなかった。この高校の馬鹿らしい校則。前髪は眉にかかる長さになったらピンで止めるとか、カラーピン使用禁止とか、髪が肩につく長さになったら二つに結ぶとか、ポニーテールや一つ結びは禁止とか、三つ編みのできる長さなら三つ編みにするとか、スカートはひざ下7センチとか、学生カバンも手提げバッグもスポーツバッグも靴も靴下もタイツまで学校指定とか、紙袋禁止で必要なら風呂敷包みとか、実に馬鹿げています。それでも私は校則を守っていました。他の生徒は誰もこの校則に対して不満だらけで、大抵の生徒は「こんな学校は辞めたい」と言っています。私は学校を辞めたいと口に出したことは一度もありません。口に出した時には辞めようと思っていたので。辞めもしないのに愚痴ばかりの生徒を見っともないと思っていましたから。私はこの学校を辞めます。今、そう宣言したので、これは絶対に実行します。何を言われても変わりません。だから引き止めるのはやめてください。時間の無駄ですから。そしてK先生、あなたはこの、真面目で校則を守る私を何かと言うと注意しましたよね?朝の校門検査で他の子は素通りなのに一々私を呼び止めては靴下の三つ折りが少し小さすぎるとか、ちょっとでも眉に前髪がかかっていただけでどうこう言い出したり...もっと分かりやすい校則違反をしている生徒はいるでしょう?だいたい何ですか?あの朝の校門検査は? スカートをウエスト部分で折り曲げていないか確認するために、ウエスト部分が見えるようにブレザーの裾部分をたくし上げて歩くとか? あんなの長いスカートを履きたい人はもう一枚予備のスカートを駅のコインロッカーに預けてあるんですよ? 駅の公衆トイレで履き替えているんです。全く無意味なことばかりして、実にこの学校の校則はくだらないです。もともと私は行きたい公立高校があったんです。偏差値だけなら合格圏内でしたが、出席日数に問題があったため内申が今一つという理由で、3ランクも落として受験しなければならなかった。私はその学校へ行きたくなかった。それを父ときたら三者面談の時に、ヘラヘラ笑いながら「どこでも良いですよ。受かれば、な、Y」とか言って...。私はこの時に公立高校の試験は受けないことに決めたのです。この高校は憧れの先輩の通う高校でしたし、校外から見れば生徒たちは品良く見えたし...この辺の私立では良い女子校だと思ったから、私の中ではこの女子校一本のつもりで受験したんです。なのに何ですか?実情は全く違う。生徒たちはバカみたいに男子の話ばかりしてるし、男性の先生の授業ではわざとスカートの中を下敷きで扇いで彼の反応を見てクスクス笑ったり、全く品がない。中にはもちろん素晴らしい方もいらっしゃいますが、それはほんの一握りです。この学校の生徒たちが何故このように、外面だけ取り繕うのか分かりますか?それはこの学校のくだらない校則に原因があるのではないですか? 主体性も何もない。一から十までがんじがらめで...校門を出た途端に清楚ぶる生徒たちは、あなた達がそうやって外見ばかり煩く整えさせてようと縛り付けるから、猫を被るのが当たり前になるんじゃないですか? 私はこの学校の外見だけの猫被りの生徒たちに騙された気分です。K先生も同じです。私の父がいるから良い先生ぶっていますが、生徒たちの前ではまるで違いますよね?K先生は生徒達に影でなんて言われているかご存知なんですか?あなたは生徒達から被覆ババアと言われているんですよ!」


「いやぁお前のあの剣幕でさ、あの教頭...あの時の顔ったらなかったなぁ。キリッとしてキツい人かと思ったら、驚いてオロオロして、お前に何も言い返せなかったろ?」
「Kはお父さんがいたから、余計なことを言わなかっただけだよ」
「そうなのか?」
「うん、多分ね」
「そうか」
「そう。だって生徒達の前じゃ物凄い口達者だもん。ちょっとでも口答えしたら引っ叩くから」
「そうなのか?」
「うん、そうなの」
「へぇー、そんな風には見えなかったな」
「そりゃそうでしょ?父兄の前だと猫かぶるから」



高校からの連絡で、一人暮らしのままでは放っておけないと判断した父が慌てて私を自宅に戻したが、無表情になり滅多に口を聞かなくなった私を、母が「怖い」と言い出していた。
そして私はそのバーのママの自宅で、二ヶ月ほど暮らすことになったのだった。
希望の高校へ受かるために、そのときの私は勉強ばかりしていたから、ママともほとんど会話をしていない。
ママと二人で食事をしているところや、ママの愛人であり父の友人でもあるOさんと三人でドライブした記憶が残っている。
あと覚えているのは、ママの愛犬のポメラニアンの愛くるしい姿と、そのキャンキャンという甲高い鳴き声。


そのママのバーへ、父は私を誘ったのだった。
そのバーでの父のある態度に失望した私は、父を打ちのめす発言をして、ある出来事へと発展していく。
今回はその話をしようと思っていたけれど、思わぬ方向へ寄り道してしまって、そこへはたどり着けなかった。






そのお話は、またこの次に。



この調子では、いつになったら夫婦の課題が出てくることやら...。


全く...先が思いやられますな。
























夫婦って...何だ? 初めての結婚編 ⑶

物事を深く考えることをやめた私が、自分の思いで人生を変えられるのだと気付くのは、まだまだ先のお話。 自分の不遇に酔って、可哀想な私をすることしかできなかった24歳のころの遠い記憶。

夫婦って...何だ? 初めての結婚編 ⑵ - どこか遠くで。

音を忍ばせて玄関の鍵を開け、家人に知られぬようにこっそりと自分の部屋に戻った私を、待ち受けていたかのように部屋に10分もしないうちに父が顔を出した。
子供部屋には鍵はつけておらず、父はノックなどせずに平然と部屋のドアを開く。
ドアから顔を覗かせた父は、嬉しそうこうに言った。
「おぅ、帰ってきたか」
大好きな父の笑顔だった。
思わず泣き出しそうになるのをこらえた私は、少しぶっきら棒に応える。
「うん」
「入っていいか?」
「どうぞ」
父はつかつかと部屋の中央を進むと、窓辺に設置したライティングデスクの椅子を引いて腰掛ける。
「Tから電話があったぞ」
一瞬怯んだ私の緊張をほぐすように、父は笑顔で一つだけ大きく頷くと、
「お前、そんなにあいつのことが好きなのか?」
と聞いた。
「え?それはそうでしょ」
私は即答する。
ちょっと面白くなさそうな顔をして、父は呟く。
「ふん!なんでまた、あんなオッサンを...」
少しムッとした私の顔を見て、父は再び相好を崩すと慌てて付け加える。
「まぁ、お前が決めることだからな。好きにしろ」
そう言うと私の反応を見もせずに父は椅子から立ち上がり、部屋のドアへ向かった。
ノブに手をかけてから立ち止まり、振り返るとこう告げた。
「明日、Tと会って話をすることになってる」
「え?」
「心配するな、悪いようにはせんよ。奴はきちんとお前を家に帰したし、電話で報告もしてきた。ちょっと二人で酒を飲みながら話してみたいだけだ」
「Tさん、お酒飲まない」
「そうなのか?」
「そうだよ」
「この前は飲んでたろ?」
「お父さんは飲んでたけど、Tさんは最初のビール一杯と日本酒おちょこ一杯しか飲んでないじゃない」
「そうだったか?」
「そうなの。Tさんは飲めないけれど会社員時代に飲みの席を経験しているから、飲んでいる風にするのが得意なんじゃない?」
「そんなもんか...」
「私はお酒飲みとは結婚したくないもん」
「そうか...」
「そうだよ。Tさんに無理やりお酒をすすめないでね?気持ち悪くなっちゃうみたいから」
「ああ、分かった」


父とTが何を話したのか、詳しくは聞いていない。
ただその時の二人の話は、後々私にとって不都合なこととなる。
もちろん父は敢えてそうしたのではない。
おそらく娘を思う親心だったのだろう。
それでも...。


父との話し合いのあと、Tは我が家にも普通に訪ねて来るようになった。
私たちは結婚式は挙げないけれど、あの話し合いから三ヶ月後に入籍することに決まった。
それでもその日を待たずにある出来事が起こり、結果的に私は家を飛び出すことになる。


その出来事を語る前に、入籍前に父のが起こした面白いエピソードを話そう。


入籍の日を控えたとある日曜日の午後、父が唐突に私を健康ランドへ誘った。
父と二人で健康ランドなどへ行ったところで、入浴は男女別々なわけだし面白くもなんとないと思ったものの、満面の笑みで誘う父の誘いは、私を「まぁいいかぁ」という気持ちにさせた。


その日の父はいつにも増して上機嫌で、健康ランドまでの30分ほどのドライブの間も、ハンドルを握りながら引っ切りなしに昔話をする。
私の子供の頃の話を、実に嬉しそうに語る父の横顔は今でも忘れられない。


健康ランドへ着くと普通なら入浴後に広間で待ち合わせるのに、なぜか父は私を誘導するように奥へと進む。
不思議に思いつつも、黙って後に従う私。
父は突然立ち止まり振り向くと、ちょっと悪戯っぽい笑顔で言った。
「おい、Y。ほら、あそこに占いがあるぞ。お前、占ってもらえよ」
「え?今?」
「おう」
「今日は別にいい」
「なんだ、お前。Tのこととか気になるだろ?料金は俺が出してやるから、ちょっとみてもらえよ」
「うーん、じゃぁそうする」


占いの衝立の向こうには一人のおばさんが、ポツリと腰掛けていた。
「みてもらえますか?」
私がそう声をかけると占いおばさんは重々しく頷くと、対面に置いてある椅子を手のひらで指して座るように促す。
「今日はどんなことを?」
「もうすぐ結婚するので、その方との相性?」
なんども頷きながら占いおばさんは、私とTの生年月日や名前の漢字を聞き取る。
そしてしばらく黙った後で首を斜めに傾げたまま眉間を顰めると、真っ直ぐに私と向き合った。
「この結婚はやめておきなさい」
「え?なぜですか?」
「この人と結婚したら、あなたは大変なことになる」
「どう大変なんですか?」
「あなたが不幸になる姿が見えています」
「どう見えるんです?どこに?どんな風に?」
占いおばさんのノートを覗き込むと、開いたノートの裏側のページが透けて、私の名前が見えた。
「え?あれ?これって、私の名前...?」
占いおばさんが狼狽える。
「ちょっと見せてください!」
占いおばさんの前からノートを奪い取った私は、開いていたページを一枚めくった。
私の名前と生年月日が、ノートにしっかりと記してある。
「これ、どうゆうことですか?」


占いおばさんはすぐに観念して、全てを打ち明けた。


前日の土曜日に一人でやってきた父に頼まれたのだと、占いおばさんは言うのだ。
明日、娘を連れてくるから結婚は諦めるように言ってくれと、父から頼まれたらしい。

「いくら貰ったんですか?」
そう問いただす私に、占いおばさんは慌てた様子で即答した。
「私は困るって断ったんですよ。けれどお父様は大変心配しておられて...」
「だからこんなインチキを請け負ったって言うんですか?」
「インチキって、あなた...」
「インチキでしょ?これバレたら大変なことになるんじゃないですか?健康ランド側は承知しているんですか?」
「あ、いえ...」
「これ訴えられますよ」
「え...そんな...」
「だってそうでしょ?考えてみてください。頼まれたからってお金を取ってそんなインチキの加担をするなんて、これはもう大問題です」
「え、あ...」
「父はいくら払ったんですか?全額、返してください」


占いおばさんは黙って従った。
それは結構な額だった。


占いの衝立から出ると、父の困った顔がすぐに目に飛び込む。
当然、父には占いおばさんと私の声は筒抜けだ。
照れ笑いをする父に私は、呆れながら言った。
「もーう...お父さんったら...」
「なんだなぁ、あの占い師、しょうがないなぁ」
「しょうがないのは、お父さんでしょ。全くもう...」
「まぁそう怒るな」
「別に怒ってないけど。変な小細工やめてね、ほんとにもう...」
「お前、あの占い師から金返して貰ったのか?」
「当たり前でしょ?」
「いやぁ、そりゃ悪いだろ?」
「悪くない!受ける方が悪い。出す方も出す方だけど...」
「そうか?」
「そうだよ、はい」
お金を渡そうとすると父は、
「それ、お前にやるよ」
と一言。
「え?こんなお金いらない」
私は素っ気なくかえす。
「そんなこと言うなよ。金はいくらあっても困らないぞ。お前あいつと結婚するんだろ?」
「うん」
「お前、貯金なんてないんだろ?」
「まぁ...」
「自分の自由になる金は出来るだけ多く持っていた方がいい。お前があの占い師から奪い取った金だから、それはもうお前のものだ」
「奪い取ったって...人聞きの悪い...」
「いや、それが事実だろ?俺から返せとは言ってないんだから」


そんなことがあったなぁと、この話はいつも私の定番の笑い話だ。
あの日はあの後どうしたのか、私の記憶からきれいに消え去っている。
あの占いの衝立の前で父とした会話が、あの時の記憶の最後の場面だ。



思い出すとおかしくて、けれど何故か涙が出る。
必死で私を守ろうとする父の思いが、今だから心にしみる。


あの時、素直に父の言うことを聞いていたら、今の私ではない人生を送っていたのだろうか。
精神を病むことはなかったろうか。


今の夫と出会うことも、なかったのかも知れない。


いくつも選択肢のある人生を、その時々に私は選択する。
選択した先に今の人生があるのか、それともあらかじめ決まっているのか。
そんなことは、誰にも分かりはしないだろう。
神様がいるかいないか、幽霊がいるかいないか。
占いは果たして当たるのか?
科学では証明しきれない謎があるから、生きているのは面白い。
どんなどん底の人生にも、笑いはある。


最初の夫のこと。
今の夫と出会ったこと。
今の私は幸せなのか?


この続きは?







また、次の機会で。
















夫婦って...何だ? 初めての結婚編 ⑵

言ってはいけない言葉を口にした私を、父は苦しそうな面持ちで見遣ってからポツリと「俺は許さんよ」と一言告げると部屋を後にした。

夫婦って...何だ? 初めての結婚編 ⑴ - どこか遠くで。

父の反対する結婚...。
父の反対を押し切ることなど、24歳になった私にとって全く困難なことではなかった。


反対するなら家を出ればいいだけのこと。
すでに無計画な家出を企てた経験のある私には、行くあてのある家出などコンビニエンスストアに行くようなもの。
第一結婚を反対する父その人が、実の兄の助言を物ともせずにあの母との結婚を強行したのだ。
母のあの、自分勝手で子供じみた振る舞い。
家事も育児も放棄して、酒に明け暮れるだけのだらしない人。
ブクブクと太って身なりも気にせず、失った歯を補うこともしない。
数年前に入院した父の看病で寄り添っていた時に母は、三つ年上である父の母親と間違えられるほど老いて見えた。
父が若く見られたのも原因の一つではあるが、高い費用をかけた入れ歯をただ痛いと言う理由だけで放置し、我慢も勿体無いも努力も知らない人間性がなす姿がその老いなのだろう。


身なりの良い夫と身なりを構わない妻の内情を知らぬ他人が見れば、「ずいぶん苦労なさってるんですね」と同情を寄せられるのはいつだって妻の方だった。
遊び歩いて外に女を作って、自分だけ身なりを整えて、妻には何も与えない薄情で酷い夫。
遊び歩く夫に耐え忍んで、自らを犠牲にして、酒に縋るしか術がない無知で可哀想な妻。


父は何度も母に言う。
お願いだからお前、もう少しなんとかしてくれないか?そんなんじゃ俺が笑われるんだぞ?


その度ごとに母が父に返す。
ふん!あんたがどう思われたって私の知ったことじゃない、だいたい浮気ばかりして私をこんなにしたのはあんたじゃないか?!


母は人前で同情を買うのが上手い。
小さな声で俯いて気弱そうに話す、その見窄らしい姿からは、酔った時の荒々しさや、弱者に対する時の高圧的な態度は微塵も感じられない。
パチンコに明け暮れて、父が母のために蓄えた母名義の通帳の全額を平然と使い果たしてしまう人。
家でのあの尊大な物言いを、人前では意見も言えないオドオドとした大人しい人という姿で、すっぽりと覆い隠す。
どんなに取り繕っても一度酒が入って気が大きくなってしまえば、その本性は全て白日の下に晒されるのだ。
酔ってしまえば、我の強い高飛車な態度が表出するのだ。
母を庇っていた周囲も、彼女のその姿を一目でも見れば驚愕してあきれ返り、また関わることに困惑し、それ以降は確りと距離をおく。


けれど、どちらが本当の母なんだろう?
長く暮らした娘の私ですら、時たま迷ってしまうのだ。
本当の母は優しくて気の弱い人なのかな?
全てお酒が悪いのかな?


それでもやはり酔った時のあの怪物のような人物が、母の本性なのだと思い直す。
そう思わざるを得ないことが、家庭の中の日常に在るのだから。


自分自身の努力をしない怠惰には目を瞑り、父の浮気相手にただならぬ嫉妬心を燃やし続け、髪を振り乱し愛人の元へ乗り込んで行ったり、醜い顔をして泣き喚きながら父への罵倒を繰り返す毎日。
浮気の元となる己の姿や態度には盲目で、ただただ人に責任をなすりつける。


勝手に婚前交渉で作った私にまで「あんたなんか産まなきゃ良かった」
「あんたが出来たからお父さんと結婚することになったんだ」などと平然と責め立てる。
挙句の果ては「あんたはお父さんの味方ばかりして」「いい子ぶって」「利口ぶって」「気取ってる」「嫌な子」「暗い子」
「可愛げがない」「何を考えているのか分からない子」
と非難のシャワーを浴びせるのだ。


「大きな女は可愛くない」「ずいぶん大きな手だねぇ」「足が25センチって...男の人みたい」「女の子は私やHみたいに小さくないと相手の男の人が可愛そう」「図体が大きくて見っともない」「そんなに大きかったら守りたくなくなる」
そうやって私から自信を奪い取る。



身長が166センチメートルの私は一時期、背が高いことを気に病んで猫背になってしまったことすらある。
猫背にして、俯いていれば、少しは背が小さく見えるだろうと思い混んでのことだった。
そんな私に父は言った。
「おい、Y、背が高いのは格好がいいんだぞ。俺の初恋の相手は頭も良くて背がすらりとしてモデルみたいな人だった。背筋を伸ばしていつも前を向いて、すっと首筋を伸ばしてな...凛として格好良い人だった。いいか?猫背はいけない。ほら?背筋を伸ばして前を見ろよ。下なんか向いてるなよ」
父のその言葉に、それでは何故また母のような人と結婚したのだろうかと、ふと疑問が浮かぶ。
言葉にはしなかったけれど。


父は母と結婚して幸せではなかったろう。
おしめを変えてミルクを与えて、休みの日には連れて回って。
母のようにならないようにと願い、必死に私を教育した父。
私を育ててくれた父のたくさんの言葉。
余計な詮索をせずに黙って家出の後始末をしてくれた父...。
父が私のためを思って反対しているのは確かだろうけれど、どんなに反対されたってこの恋を成熟させるんだ。
そして私はこの家を出て、幸せになるのだから。
そんな強い決意を胸に、ボストンバック一つに最低限の荷物を詰めると、私はTの元へと急いだ。


当時のTは実家近くに2LDLのマンションを借りて、一人暮らしをしていた。
家を出た私は、自宅の最寄駅から公衆電話で事の成り行きを告げた。
するとTは自分の自宅から少し離れた、ターミナル駅を待ち合わせ場所に指定する。
少し違和感を覚えたものの、きっとターミナル駅まで迎えに来てくれるのだろうと軽く受け流した私は、指定されたターミナル駅へ向かった。
困惑顔のTの顔を見た途端に緊張の糸がほどけて、私の頬に涙がつたう。
当然ながらその涙を優しく拭ってくれるものだろうと甘い期待をする私に、あからさまに迷惑を顔に浮かべたTは冷たく言い放った。
「こんなところで泣くのはやめなさい。みっともないから」
え? あれ?なんだか想像と違わない? 不審に感じながらも慌てて涙を拭って、笑顔に変える私。
「あのね、父に反対されたから、ちょっと言い争いになって...Tさんの顔見たらホッとしたのかな?」
「...家を出て来たの? お父さんには何も言わないで?」
「だって、言っても仕方ないでしょ?」
「親なんだから、14歳も年上の離婚歴のある男との結婚なんて反対して当然でしょう」
「それが理由じゃないから...」
「それ以外に、なにが理由だって言うの?」
「Tさんのことをよく知りもしないのに、冷たい男だって決めつけるから...」
「お父さんの目にはそう映ったんだから、仕方ないでしょう」
「Tさん、冷たいの?」
「どうかな?」
「今日のTさんは冷たい」
「それはそうでしょう? こんな風に何も考えすに家を飛び出してくる女性に、優しくするのは愚かな男だけだ」
Tの突き放した物言いに、私の目は再び涙で盛り上がる。
「いい加減にしなさい!人混みで泣くなんてみっともない。一緒にいるこっちが泣かせたみたいに見える。こんなに年の離れた女の子を泣かせる男だと勘違いされたくない」
そう言われた私はなにも言い返すことができず、涙をこらえるのが精一杯だった。


「今日はなにか美味しいものでも食べて、そうしたら家に帰りなさい」
Tは静かにそう言うと、スタスタと歩き始めた。
私は黙ってそれに従った。


あまり味のしない食事のあとで交通費だと一万円を手渡したTは、ターミナル駅に私を残し一人で自宅マンションへ帰ってしまった。
しばらく途方にくれた私だが、自宅へ帰るしかない。
二年間のあの家出も成功と呼べるものでは到底なく、私は思い出すのも不快な出来事をいくつか経験して、結果的に父に助けられたという結果が負い目となる。
母や妹にどれほど嫌な思いをさせられても、自宅にいさえすれば一人暮らしよりは確実に安全でいられるのだ。
家出から戻ってから以降、父が私を殴るということもない。
母も以前に比べたら、ずいぶん優しくなった気がした。
妹は結婚して家を出たし、天下とは言わずとも穏やかな日々を過ごすことができる。


ターミナル駅から自宅の最寄駅までは快速一本で帰れる。
Tから手渡された一万円は交通費には多分すぎてが、それが却ってひどく惨めな気分にさせる。
父が言っていたようにTは冷たいのかも知れない。
いや、常識ある大人だからあんな風に冷静に私を帰すのだ。
そうやって行ったり来たりする思いを抱えながら、混雑する車内で過ごすのは躊躇われた。
グリーン車の空席の窓際に席を決めると、私はぼんやりと車窓の外の景色を眺めた。
黒をバックに、いくつものネオンが重なり合っている。
そのうち駅員がグリーン券の有無を確認に来るだろう。
事前にグリーン券を購入せずとも、その場で駅員が対応してくれる。
それまでは泣きたくないなぁと思いながら、楽しいことを考えようと努力する。


そうやって努力すればするほど、悲しさがやってきて涙が頬をつたう。
まぁいいや、知らない人に泣き顔を見られたところで二度と会うこともない。
窓の外を飛ぶように流れていく夜の灯、暗い窓ガラスに泣き顔の私が映っている。
馬鹿らしいなぁなんだか...面倒くさいなぁ色々...このまま何処かへ行ってしまいたくなる気持ちを抑えて、来た経路を引き返す。
馬鹿みたいだ私...いや、馬鹿でしょ?


ゴトンゴトンと響く電車の車輪が線路を刻む音が、いつもよりも頼もしく感じる。
沈む私の心を、賑やかに慰めてくれているようだ。
頑張れ、頑張れ。
大丈夫さぁ、なるようにしかならない。
考えたところで、なにも変わらないんだ。
ゴトンゴトン...大丈夫大丈夫。
ゴトンゴトン...頑張れ頑張れ。


また明日がやって来て、私は私でいるしかない。




物事を深く考えることをやめた私が、自分の思いで人生を変えられるのだと気付くのは、まだまだ先のお話。
自分の不遇に酔って、可哀想な私をすることしかできなかった24歳のころの遠い記憶。







さあ、この後どんな出来事があって、Tとの結婚はどう展開するのか?
昔のブログにはチラッと記した。
はてなブログでもちょこっとさわりだけ。



2回目の結婚生活を送っている55歳の私は、どう過去を振り返るのだろう。
当人の私すら今の時点では見えていない。









さあ、今日はここまでにいたしましょう。




それではまた。
気が向いたら寄ってみてください。
いつ頃更新されるかも全く未定ですが...。

あまり明るくない方向へ進んでいるようです。
お気が進まなければ、どうぞ無理はなさらずに。



お気持ちに余裕のあるときに、ちらりと。



















夫婦って...何だ? 初めての結婚編 ⑴

さて、重い腰を上げて...


r-elle.hatenablog.com

「突然、辞めちゃって連絡もしてこないから、Tさんと心配していたのよ。いつもTさんとYちゃんの話をするの」 え?何で? 正直、そう思い、若干気持ちが悪いとまで思った、非道な私。

夫婦って...何だ? - 遠い箱


ショートカットで人の良さそうな笑顔の目の奥に、挑戦的な自信が満ち溢れるこの年上のこの女性を私は、心から信頼できないでいる。
どうしても親切の裏を考えてしまうのだ。


年上の女性は続ける。
「Tさんね、退職して独立したのよ!お金持ちになったの!美味しいもの食べさせてもらえるわよ。Yちゃんのこと気にしてたから、会ったって話したら喜ぶわ!」
「え?そうなんですか?」
「そうよ!ね!私からTさんに連絡するから、一緒に食事しましょうよ」
「あ?はぁ...」
「今からTさんに電話するわ!あそこの喫茶店でちょっとお茶しましょうよ!」
「え!?」
「あら?用事でもあるの?」
「あ、いや」
「じゃいいでしょ?懐かしいわぁ〜好きなものご馳走するから、ね!」
「...はい」


そして喫茶店のテーブルに置かれたプリンアラモードを目の前にして私は、年上の女性が喫茶店のレジ横に設置された公衆電話からTに電話をかける姿を眺めている。
甲高い大きな声で話す彼女の声は、そう広くない喫茶店の店内に響き渡っている。
「あ!Tさん!今大丈夫?そう?びっくりするわよぉ貴方、今私、誰と一緒だと思うかしら?分からないって...やぁねぇ、当たり前じゃないの。分かったらこっちが驚くわよ。はい、あ、そう。Yちゃんよ、Yちゃんと一緒なの!そうよ〜あのYちゃん。なんで一緒って?あら時間がないんじゃないの?あ、そうね、偶然会ったの。今喫茶店で一緒よ。電話を代わってって?あら?そう?じゃあ、また後でかけるわ」


あれだけ大声で話していた年上の女性は、しゃなしゃなと気取りながら私の待つテーブルへと歩む。
腰を振って周囲を十分に意識したその存在は、どことなく見苦しい。
大きな胸を揺すって、くびれたウエストを際立たせるスリムなラインから広がるワンピースの裾が、腰の振りとともに揺れる。
スタイルが自慢の彼女は、そのスタイルを見せる術を知り尽くしているのだ。


距離にして10メートルにも満たない、そのウォーキングロードを彼女は、周りの男性をチラチラと横目で盗み見ながら、必要以上にゆっくりと歩く。
もう、いい加減にさっさと歩いくれないかな?
そう思う私をよそに彼女は、亀でも抜かしそうな速度で、ゆったりと進む。
はぁ...呆れのため息が溢れそうになるのを急いで飲み込んで、私は背筋を正すといつもの愛想笑いを顔に貼り付けた。


「Yちゃん、Tさんが話したいって」
彼女の電話での受け答えは十分すぎるほど聞こえていたけれど私は、
「そうなんですか?」
と確認してみる。
「そうよぉ〜ね!」
「はぁ」
「ほら!早く立って」
「え?」
「電話しなきゃ、Tさん忙しいみたいだから急がなきゃ」
「あの...プリン...」
「プリン?」
プリンアラモードのアイスクリームが溶けちゃうから...」
「あら?まだ食べてなかったの?」
「戻ってくるの待っていたので」
「あらぁ〜待ってなくていいのにぃ...いい子よねぇ」
「は?いえ」
「じゃ早く食べちゃって」
その言い様はなにか色々釈然としなかったが、私は急いでプリンアラモードを頬張る。
「美味しい?」
「あ、はい」
「いいわねぇ若い子は...そんな甘いものパクパク食べて...私は無理だわぁ」
は?あまりいい感じはしなかったけれど、深く考えすにプリンアラモードと対峙してやり過ごす。
そして食べ終わると同時に席を立った年上の女性に従う。
先ほどと打って変わって急ぎ足で公衆電話へと向かう、彼女の体のラインをなんの気なしに眺めた。
とても美しい後ろ姿だった。


その後、Tと話して翌週の日曜日に三人で食事をすることに決まった。
電話の受話器の向こうで静かに話すTの声は、落ち着いた余裕が感じられて心地よかった。


銀座の寿司屋で五年ぶりくらいに会ったTは、24歳になった私には「おじさん」と映らなくなっていた。
長身を生かして、シンプルでラフだけれど良質な物たちを身につけたTはとても素敵だった。
かつてT本人が語っていた、学生時代は「ショーケンに似ている」とモテはやされファンクラブまであったという過去は、実話なのだろうと改めて思った。
サラリーマン時代はちょっと出始めがお腹とふっくらとした頬が「人の良さげなおじさん」を物語っていたTは、余暇にボクシングを習っているという引き締まった精悍な体が着ている物の下に感じられる。
なによりも削ぎ落とされた頬が少し寂しげで、なんとも色っぽいのだ。
途端に恋に落ちた私は、お酒のせいだけじゃなくきっと頬を染めていただろう。


それからトントン拍子にお付き合いへと進み、25歳になった私は当然ながらTとの結婚を考えていた。
父に話すと「会ってみよう」と簡素に言われた。
14歳も年上のバツイチの男性との結婚話に、なんの動揺も見せない父は頼もしくてカッコいいなと思った。


Tと父と私、三人で懐石料理の席では、父は始終穏やかな対応をしていて、私よりも父の歳に近いTも少年のように生き生きとしている。
これは良い感じだな、と私は単純に考えていた。


そう『いた』のだ。
帰宅すると父は即座に言いのけた。
「Y、あの男はやめておけ」
「どうして?」
「いや、あの男はどこかおかしいぞ。やめておいた方がいい」
「どこかおかしいって何?年上で離婚歴があるから?」
「そんなことはどうでもいい。あいつからは何か冷たいものを感じるんだ」
「なにそれ?意味が分からない。冷たいものって何?」
「うまく言えん。いいからやめておけ」
「いや!そんな適当なこと言って...お父さんは私をお嫁に行かせたくないだけじゃない?家を継ぐ人と結婚して欲しいだけでしょ?」
「そんなことはもうどうでもいい。あんな会社、俺の代で終わりになっても構わんよ...お前を心配してるんだ」
「心配なんていらない!私は好きにしたい!Tさんと結婚したいの!」
「俺は許さんぞ」
「お父さんに許してもらわなくてもいい!私、こんな家は出るもん!」
「全く、お前は...あいつと一緒になったら不幸になるぞ?」
「なんでそんなことが分かるの?お母さんみたいな人と結婚したくせに...Tさんよりお母さんの方がよっぽどおかしいじゃない!」


言ってはいけない言葉を口にした私を、父は苦しそうな面持ちで見遣ってからポツリと「俺は許さんよ」と一言告げると部屋を後にした。
























はい!
ちょっと、コーヒータイムです。



初めての結婚編 ⑵へ続きます。












悠斗の場合。

今週のお題「好きな漫画」ー



平野はいつも一人だな...そう思いながら優斗は、平野紗英子を見ていた。

「おい!高橋!聞いてんの?」
水島翔太郎が不服そうに問い質す声で、優斗は我にかえる。
「え?あ、なに?」
「なにじゃないだろ?夏の講習さ、お前どう…って、おい!なんだよ、高橋。また平野、見てんの?」
「ちょっ、お前、声でかいよ!」
「なに言ってんの? いまさら。もうみんなにバレてんじゃん、お前の平野好き。知らないの平野本人だけだろ?」
「うるせーな!」
「うるさいって…まぁいいけど。平野はさ、あれ、やめた方がイイんじゃないの?」
「なんだよ?」
「つか、女子たち言ってんじゃん?」
「あ?」
「お前さぁ...平野のことになると態度悪いよね? まぁさ、余計なことだって分かってるけど...俺だって高橋のこと、心配して言ってんだろ?」
「あ、その話、もうイイから」



優斗はすくと立ち上がると、苦虫を噛み潰したような顔で睨む水島翔太郎を残して、教室の窓側へと向かった。
窓際の最後列の席で平野紗英子はどこを見るでもなく一人、所在なげに席についている。


平野はいつも一人だ、またしても優斗はそう思って、まっすぐに平野紗英子の席を目指す。
夏休み前の昼休み。
直射日光の降り注ぐ校庭へなど出て行く酔狂な者などおらず、教室は生徒たちの声が重なり合って、騒めき立っている。


平野はいつも一人だ、それは俺が原因の一つでもあるだろう? と、思春期特有の自意識で、悠斗の胸は少しだけ痛む。
二年前の入学式の日を、悠斗は思う。


入学式の会場は進学校とはいえども、この高校に無事に合格できた達成感と解放感で、お洒落に目覚める生徒たちで賑わいを見せていた。
高校デビューとまではいかずとも、学業一筋だった暗い中学時代を取り戻すかのように、誰もが高校生らしい華やぎを求めて、春休みを終える。
まだまだ彼らの身にはついていないけれど、長い春休みの間にそこそこのファッションセンスを獲得する者が大多数をしめていた。
その中でひときわ目立ったのが、平野紗英子だった。
平野紗英子は、昭和の女子高生でもまだ少しは洒落っ気があったのではと、その出で立ちに目を疑うほどの地味な様子で、逆に人目を引いていたのだ。


バージンヘアに三つ編み、全く手を加えていない膝小僧より5㎝長いスカート、色付きリップさえ塗っていない真の素顔。
これにメガネでもかけ、前髪を黒いヘアピンで止めてでもいればどことなく頷けるのだ。けれども平野紗英子の前髪は眉あたりまで隠してあるし、メガネさえもかけていない。

どことなく野暮ったいが、完全に真面目一直の生徒とも異なっていた。
まさに時代を飛び越えて、昭和の普通の女子高校生が、平成にやってきたかのような佇まいだった。


悠斗はその姿に釘付けになった。
悠斗が平野紗英子のその姿に驚いたのは、彼女のその異質さではなかった。
平野紗英子は酷似していたのだ、四年前に多発勢骨髄腫で他界した悠斗の母親の高校生の頃に。
悠斗が母を思い、なんども開いた残された古いアルバムで見た、高校時代のはにかんだ母の笑顔が平野紗英子の仏頂面に重なって、彼は彼女からすっかり目が離せなくなっていた。










紗英子の場合。

今週のお題「好きな漫画」ー




紗英子はいつも考えている。
十七にもなって、少女漫画を読んでいることについて。


このまま少女漫画ばかり読んでいたら、素敵な大人になれないのじゃないかと心配になるのだ。
周りのすすんだ子たちはすでに彼氏がいて、その恋の悩みについて眉間にシワを寄せながら、すっかり大人の顔をして語り合っている。
いまだ彼氏は愚か、片恋の経験すらない自分の幼さに紗英子は、どこか未熟さを感じて不安になる。


女の子たちは皆、校則違反のお化粧などもこっそり楽しんでもいて、紗英子から見ていても眩しいほど輝いている。
紗英子といえば校則通りに野暮ったく制服を着込み、色付きのリップクリームすら塗ったことがない。


紗英子はこの歳になっても好きな少女漫画を読んで、ただただ理想の恋に焦がれているばかりで、男の子となぞ満足に話しすらできない。
紗英子の一番好きな漫画は大島弓子綿の国星だが、主人公のチビ猫ですら飼い主の時夫に恋をしていることに、戸惑いを覚える。
たしかに時夫は優しいかも知れないけれど、私だったらもっとクールな男の子が理想だな、などと思った直後に、空想ばかりして本物の恋の始まりどころか、好きな人もいない私が何を生意気なことを考えているのだろう、と思わずくすりと笑った。

「おい、平野、なに一人でニヤケてるんだよ? お前、実はむっつりスケベじゃないの?」

その声の主は、間違いなく高橋悠斗だ。
声が大きくてガサツで、いつも数人の男子たちとふざけてばかりいるやつ。
そのくせ勉強もスポーツもデキて明るくて、親切で背が高くて、まぁカッコイイ部類に入る顔立ちをしているから、女子から人気がある男子生徒。
私の一番苦手なタイプだ、と紗英子は常日頃、彼のことを快く思っていない。
やたらと話しかけてきては、紗英子には興味のないことを話まくるから、普段なら男の子との会話が苦手な紗英子ですら、高橋悠斗とは至極普通に話ができるほどになったくらいだ。


顔をあげて返答でもしようものなら、またあれこれとつまらない話を始めるのだろう。
そう思って紗英子は黙ったまま、顔を高橋悠斗が立つ反対側に背けて、窓の外を眺めた。

「なんだよ?平野、あからさまに無視するなよな?いくら俺だって傷ついちゃうよ」

いくらって? あんたがどんなだか私は全く知らない、心の中でそう毒突いて、紗英子は更に熱心に窓の外を見つめる。
何か面白いものでも見つからないかと窓外に広がる景色を丁寧に見回すが、夏休みが近い校庭には人の影すらない。

「おいおい、平野、聞こえてるんだろ? 少しは反応しろよな」

このまま無視をし続けても、うるさいばかりで高橋悠斗はここから離れないだろう。
意を決して紗英子は窓外の景色から目を離し、高橋悠斗を見た。


「なに?その迷惑そうな顔」
「だって迷惑なんだもの」
「え? お前それ、言う?」
「...。」
「なんとか言えよ」
「お前って言うのやめてくれない?」
「そこ?」
「うん、すごくイヤ、お前って言われるの」
「そうか? じゃなんて言えばいいの?」
「あなた、とか、君ならまだいいかも?」
「え? 俺、そんな気取った言い方できないよ」
「気取った言い方なんかじゃないでしょ? 考え方がおかしい」
「なんだよなぁ...お前の方がおかしいじゃん」
「またお前って言った」
「ごめん、じゃ、キミ?」
「...ほんと、高橋くんじゃ、君って似合わないみたい」
「あー、もう!そうだろうよ!」
「高橋くんって乱暴だよね? 話し方」
「そうかな? 普通じゃない?」
「ふーん、普通ってよく分からないけど、まぁ高橋くんには今みたいな話し方があっているんだろうね」
「なんだよ、そのバカにした言い方」


こうやって意味のない会話が、延々と続くのだ。
お昼休みの時間がなくなってしまう。
そう思って紗英子は黙って席を立つ。

「おい!平野、どこ行くんだよ?」
「お花摘み」
「花なんか、今からどこに摘みに行くんだ? 昼休み終わっちゃうぞ」
「...トイレ、トイレに行くことをお花摘みって言うの!」


あんぐりと口を開けたまま、高橋悠斗の顔は見る間に赤くなっていく。
それを見て紗英子はなんだか可笑しくなって、笑った。
口を閉じた高橋悠斗も、少し恥ずかしそうに笑い返す。

「高橋くん、顔が真っ赤だよ?」

あたふたとする高橋悠斗を残して、紗英子は教室から廊下へ出た。
夏の日差しが、続く廊下に降り注いでいる。
生徒たちで賑わう廊下を一人、紗英子はゆっくりと歩く。


高橋悠斗は私に恋をしているのかな?
だとしたらどうなのかな?
私は高橋悠斗に恋ができるのかな?
いや、まさか...あんなガサツで、うるさい男の子となんて...。


けれどさっきの照れた笑い顔は少し可愛かったかも知れない、などとぼんやり思いながら、紗英子は更にゆっくりと廊下を歩いた。


夏の日差しがきらきらと眩しくて、思わず目を細めた紗英子の頬が、ほんのりと赤く色づいていることに、紗英子自身はまだ気づいてもいなかった。