どこか遠くで。

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夫婦って...何だ? 初めての結婚編 ⑸

そのママのバーへ、父は私を誘ったのだった。 そのバーでの父のある態度に失望した私は、父を打ちのめす発言をして、ある出来事へと発展していく。 今回はその話をしようと思っていたけれど、思わぬ方向へ寄り道してしまって、そこへはたどり着けなかった。

夫婦って...何だ? 初めての結婚編 ⑷ - どこか遠くで。

ママのお店に行くのは何年ぶりだったろう?
家出をする前だから、21歳になる前のことだ。


父のことだから、きっとママには何でも話していることだろう。
信頼した相手には内緒事のできない人なのだ。
それにしても何処まで打ち明けているのだろう。
私にだって秘密にしておいてほしいことくらいはある。
なんでもかんでも話されてしまったら、どんな顔で接すれば良いのか迷ってしまう。
家出したときの自分が陥った状況は出来れば、誰にも知られたくない。


もちろんママのことだ。
余計な詮索はもとより、余計なお節介も上からの助言もするはずがないことは私にだって分かっている。
どんなことを聞いていても取り繕う必要など全く感じさせないような、自然な態度と程よい距離感で接してくれるだろう。


ママは人に、こうあって欲しいなどと望んだりしない。
ご自身のこともこうあるべき、と縛らない。
大袈裟な態度もしないし、いい加減な態度もしない。
ママの前では自由に普通にリラックスして、好きにしていて構わないのだ。


だからこそ、私は自分がどう振る舞っていいのか分からなくなる。
望まれた、与えられた役割を演じることが当たり前だった私には、自分が本当に望むことが何なのかよく分からない。
誰かに望まれなければ、自分がどうしたいのかすら分からなくなるのだ。


私は他人がいるときは常に、その他人を意識し過ぎる。
本当の自由を、私は知らない。


こうあるべき、こうせねばならぬ、姉らしく、娘らしく、優しく、にこやかに、奥ゆかしく、けれど意志はもって、静かに、ゆったりと、堂々と、けれど優等生ではなく、不良でもいけない。
その場その場の状況や相手に応じて、カメレオンの如く変化することを要求され、それを上手く演じなければ私の居場所など何処にも存在しないのだ。
誰かといるときに、私が私のまま、リラックスして過ごして良いはずがない。


さも自由に振る舞っているように、少し我が儘な自分を演出する必要もあるかも知れない。
少し大人になった落ち着きを醸し出すべきか?
それともまだまだ子供の無邪気さが見栄隠れする、純粋な部分を覗かせるべきなのか?


ママだったら、そんな小手先の演技はすっかり見抜いてしまうだろう。
私のような小娘がどう取り繕っても、敵う相手ではないのだ。
数年ぶりのママとの再開は緊張を伴うものではあったが、それよりも会いたい気持ちが勝っていた。



週末の21時、ママのバーは程よい賑わいを見せていた。
黒を貴重としたシックな店内の大きなカウンター隅の一席分にライトアップされた、華やかな花々が見事に活けられている。
ゆったりと寛げるどっしりとした座り心地の良い椅子が、広い間隔をもって設置されている。
通常であれば三席は作れるスペースに、二席しかその椅子は置かれていない。
グラスはバカラを使用している。
変わらぬママのこだわりが感じられる店内は、時間の流れをすっかり忘れ去ってしまう不思議な空間だ。



口元に静かな笑みを浮かべたママが、父から少し離れた左前に父のボトルをそっと置いた。
「Yちゃんは何を召し上がる?」
カルヴァドスをください」
ママはちょっと眉間を寄せた笑顔で軽く頷いてから一言。
「Sさんのボトルを目の前にして、自分の飲みたいお酒を躊躇いなく注文するところが、相変わらず貴女らしいわね」


そして父の隣に、40代と思しきブランドで身をかためた一人の男が座った。
身なりは悪くないが口の聞き方を知らない男で、60代に近い父に向かって軽々しい口調で自慢話ばかりしている。
父は合図地を打ちながらにこやかに相手をしているから、私も父にならって自慢話を聞き流していた。
嫁ぐ前に親子二人で来ているのに、その男の自慢話を聞きに来ているようなものだ。


他の客の相手をしていたママがやって来て、その一人客に「このお嬢さんね、もうすぐ結婚するのよ。これからは親子で飲みに来る機会も減るでしょうから、のんびりさせてあげてね」と声をかけてくれた。
流石に男もハッとして「それはお邪魔しました」と軽く頭を下げた。
しかしそれからも度々父と私の会話に割って入っては、こちらの会話を自分の話題にすり替えてしまう。
この調子では誰も相手にしないのだろうな、そう思う私をよそに、父は「ほう、そうですか。それはすごい」などと話を合わせて相槌を打っている。
そんな父に、少しずつ苛立ちを感じ始める私だった。


二時間ばかりそうやって時間を費やしたろうか。
次第に不機嫌になっていく私が、流石に父も気になったのだろう。
「そろそろ帰るか?」
そう私に聞いた。
私はすかさず、「はい」と答える。
人前での返事は「うん」ではなく「はい」なのだ。
その辺は父に強く言われている。
私はこの頃、喫煙をするようになっていたが、この喫煙も「俺と一緒の時には人前ではしてくれるな」と言われていた。
体裁を気にしているようであまり良い気分はしなかったが、父の気持ちもなんとなく分かるからこの頃は素直に従っていた私だった。


父がママに合図して「ごちそうさま」と言う。
他の客を相手していたママが飛んで来て「今日はごめんなさいね」と、申し訳なさそうに顔の前で両手を合わせた。
父が「いや、楽しかった」と笑いながら言う。
男が「今日は私がご馳走しますよ」と間髪入れずに入る。
父が「そうかね?」と普通に返す。
男は「お嬢さんの結婚祝いを兼ねて」と返して、この会話が終わった。


帰りのタクシーの中で、私は父に文句を言う。
「お父さん!なんであんな男にご馳走してもらわなければいけないの?」
「ん?いいだろ?払うって言ってるんだから」
「あんな人にご馳走してもらいたくない!」
「いいだろ?別に」
「昔のお父さんだったら、あんな人に奢ってもらうことなんかなかったでしょ?」
「ん?金を持ってるって自慢してたろ?あいつ。金を使いたくて仕方ないんだろ?払わせてやれば良いだろ?」
「お父さんは変わった!そんなの格好悪い!」
「そうか?」
「そうでしょ!?見っともないでしょ?そんなの!そんなお父さんなんて見たくない!」


タクシーを降りてからも、私の父への罵倒は止まらなかった。
酔ってもいたし興奮していた私は、どんどんエスカレートする。
この後どんな言葉で父を罵倒したのか、全く覚えていない。
母のこと、父と愛人との旅行やスキーに同行させられた時のこと、子供時代からの恨みや悲しさ、胸の内を全て洗いざらいぶちまけた。
気がつくと父が包丁を持って、私の目の前に立っていた。
「お前を殺して俺も死ぬ」
このセリフを父が私に向けたのは、この時で二度目だった。
過去に一度、十七歳の私を父はライフルで撃とうとしたことがある。
その時も同じこのセリフを、父は口にしていた。


父が本気で私を包丁で刺す気持ちがないことを、その時の私は分かっていた。
けれど差し出された包丁で脅され、怯える素振りを見せたくはなかった。
幼い頃から我慢を重ねてきた悔しさが、一気に込み上げてきた。
その思いは、すぐに急激に頂点に達した。
こんな包丁なんて私はちっとも怖くない!
そして次の瞬間、私は父が向けた包丁の刃の部分を両手で掴んだ。
包丁を掴んだ私の手から、ポタポタと血が滴る。
血が私の靴に落ちて、染みを作る。
地面にもその血は落ちて、見る見る沁み込んでいく。
痛みは感じなかった。
ハッとした父が叫んだ。
「Y!お前!何をしてるんだ!包丁を離せ!離すんだ!」


私は泣きながら叫んだ。
「お父さんは私を殺そうとした!これで二回目なんだから!」
そう叫ぶと私は踵を返して、家の門から走り出た。
大通りに出てタクシーを拾うと、そのままTの元へ去った。


そうやって私は、入籍の日を待たずに家を飛び出したのだった。